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10年くらい前のメモ書き

 10年前のメモ書き。引用元もわからなかったりするし、そのまま記録しておきます。


 「あまりに残虐な事件に直面したとき、復讐の欲求のようなものにかられ、こんな奴は死ぬべきだと、恥ずかしながら考えたこともあります。こういう商売をしていれば、一番被害者の苦しみや遺族の悲しみ、犯人の心の深淵などに近づきやすい立場にいますからね。

  誰かの死を願うこと、それがどれほどいけないことだと分かっていても、赦すというのは口で言うほど簡単なことじゃない。それこそ神の如き心を持っていないと。でも僕は神様じゃないし、神にはなれない。」

「そんなときはどうするの?」

「頑張るんです。」 ちょっとはにかんだように彼は笑った。

「それは間違っている。自分は今正常じゃない。怒りのあまりに正常でなくなっている。だが正常なときに感じたことを自分はしっかり守っていかないといけない―って、そう思うんです。そう唱えてそれから一晩寝ると、たいていその野蛮な欲求は消え去っていますね。憎しみの思いにかられること、それに従い実行することの間には天と地ほどの違いが存在しているんです。」

(栗本薫の小説中、探偵 伊集院大介の発言)



精神科医、町沢静夫の著作から


つらい過去や悲惨な状況に捉われず、今目の前にある美しさを見つめ行動する。

自分自身の中に喜びを発見する。趣味や生きがいをみつける。

外の状況に左右されない。名誉や地位といった外面的なものにこだわりすぎると内面的なみずみずしさが失われる。

自分自身の個性、ユニークさを大切にする。

感情をやわらかく保つ。笑い、ユーモア、無駄や遊びも大切。

そこそこ、まあまあ楽しく生きる。完全主義や強迫観念は人を追い詰める。

自分の中にある自然なこころのリズムにしたがう。バランス感覚を保つ。植物や他のいきものと同じように私たちも自然の一部なのだから。

急に何か新しいことをはじめようとしてそのときの自分の状態を考慮しない、あるいは無理な仕事をあえて引き受けて責任感つよく一生懸命がんばる。そういった方法で自尊心を守るのではなく自分のありのままを守ることが健康を保つ条件。自分の心の中では無理だといっていたら、その声に誠実に耳を傾ける。

安定している時は変化を楽しみ、不安定な時は静かに待つ。待つこと、じゅうぶんに待つことのほうがエネルギーを要する。いろいろなことに思い巡らすのを止め、思考停止する、そして待つ。病気を認めないで「早く治らなければ」とあせることが治癒を遅らせる。

今、何もやる気がないことを静かに認める。やる気のない自分をあたたかく受け入れる

孤独や絶望の中でこそ大切なことに気づく 光は闇から生まれる。例えば病気を克服することで、支えてくれた家族や友人のありがたみを知り、人とのかかわりかたが深まるかもしれない。



「人生で最も重要な問題は根本的に解決することはできない、わずかにすりぬけることができるのみである」(カール・グスタフ・ユング)



「なぜ生きなければならないのか、なぜ死んではいけないのでしょうか」に対して

「生きていればいいことがある、死ねば周りが悲しむ」と答えても

「死ぬのは私の自由だ」と言われたら反論できない。

そういったときは「当面すり抜ける」。あるいは時間が経つことで状況の変化が起こって考え方が変わったり、あるいは事態が変わって問題が自然に解決するのを待つほうがいい。

今、私たちが解決できないからといって永久にその問題が解決できないわけではない。

私たちより高みにある「自然の知恵」を信頼する。



「恨みの感情ほど、すばやく人間をとりこにするものはない」(フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ)


恨みの感情はほろ苦いワインに似ている。ほろ苦いが一口飲めば自己陶酔しさらに飲みたい衝動に駆られる。手にとりたくないが、一度手にとってしまえばまたたくまにその感情はからだ全体に広がってしまう。恨みは何のために存在するのか。恨むことで相手を悪とし、自分を善とすることで心の安定を図るためかもしれない。しかし同時に、恨みは心のエネルギーを疲弊させ、その人を損なわせてダメにしてしまう。

しかし、もし相手が「自分が恨むに足らないちっぽけな人間」なら、さらりと恨みの心を捨てたほうがましかもしれない。逆に「自分が恨むに足るほど大きな人物」ならば、恨んでいる自分にも何か間違いがあったのかもしれない。

相手を許すことは自己治癒につながる。苦しんでいるのは自分だけではない。全ての人がなんらかの苦しみを背負っている。



-手塚治虫の漫画ブッダの作中でのブッダと強盗アナンダの会話-

「法力だとか術だとか、そんな無理な力を使わなくとも雨はふるときにはふり、火はいつかは消える。それが自然のなりゆきです。いつかはそうなるんだから、それでいいじゃありませんか。人間がああしたいこうしたいと思うのは欲です。捨ておいてもこの自然界はひとりでに変わっていきます。人間の力ではそれを止めることはできません。」

「わかったようなことをいいなさんなよ、坊さん。このアナンダはどうなんだよ。俺みたいなのが生まれたのも自然のなりゆきだっていうのかよ。」

「そのとおりだ。お前は悪魔の子でもなんでもない。自然に生まれ自然に育ったただの人間だよ。」

「嘘だ、わかっちゃいないな。俺はな、何人も殺したんだぞ。このままなりゆきにまかせるとまた殺すぞ。」

「アナンダよ。この世の中はどんなものでもなにかお互いにつながりをもっているものだ。それは一生続く。一生のあいだ、お前は世の中のあらゆるものとつながりをもっていく。同じつながりをもつのなら自然にまかせたらどうだね。お前が人を殺したくなったとき、その人間はお前が手を下さずともいつか自然に死んでいくのだと思いなさい。かんじんなのはお前自身がしっかり生きていくことだ。」



幼児期の安心できる親子体験 その中で苦痛を乗り越える体験をすること

友人との交流の中でいろんな悩みを乗り越えていく体験をすること

その中で自立心、がまんする心、そして他者への共感、配慮、適切な距離感を身につける

自分の感情を把握しコントロールすることと、気づかず抑えてしまう事とはちがう

例えば怒りの感情がわいたときにその感情を抑えこんでいるとうつになったり、爆発させてしまう。ユーモアでもまじえて適切に怒りを表現する 別の方向にむける。割り切って耐える、がまんする

幼児期に親からじゅうぶんな愛情を与えられずに育つと、基本的な自己愛(≒「基本的信頼」)を形成できない「自分など世の中に存在する価値はない」と思い込んでしまう

しかしそんな思いで人は生きてゆけないため、空想的な自己愛≒妄想-自分は能力があるのだ-を創りだす。親から「お前は大切だ」という刷り込みがないため自分で創りだすしかない。そうした空想によって自己愛の基盤を埋め合わせることでようやく生きていける

同じ幻想的な自己愛であっても、親からの愛情の支えがあって形成される自己愛と違い、空想的な自己愛は支えがない分病的になりやすい

親からの愛情を受けずに空想的な自己愛を形成せざるをえない場合でも、その後の生き方で自ら立派に成長することもできる。


ジョンレノンは生まれてすぐ父親が家を出て、母親も彼を親戚にあずける。彼が10歳の頃に母親に引き取られたが、その後母親は交通事故で亡くなる。彼は幼い頃から自分を捨てた両親を憎んで成長する。両親にとっていらない存在だった自分自身にも憎しみを抱く

彼の唯一の慰みは、絵や小説や音楽をつくることだった。彼は類稀な才能があったため、空想的な自己愛の産物が広く人に認められた。しかしそれだけでは彼の人生を満足させることはできなかった。オノヨーコと出会い、二人の愛情を育むことによって、親から与えられなかった愛情をうめあわせることが出来た。ジョンがヨーコにひかれたのはNYでの彼女の個展を見に行ったときだった。画廊に入ると、天井に「ここを見なさい」と書いてありそれに向かって階段がある。のぼっていくと紐がありひっぱると「YES」の文字があった。