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帰ってきたヒトラー / 街とその不確かな壁


『 帰ってきたヒトラー』ティムール・ヴェルメシュ著(河出文庫 訳:森内薫)を読みました。この小説の大きなメッセージは、映画版の主演俳優インタビューにあるように、「ヒトラーが現代に復活したら、はたして人々は再び洗脳されてしまうのか?」だと思います。

 2010年代のドイツにタイムスリップしたヒトラーが現代文明を批判する語り口の面白さや、人々との会話の行き違いも痛快です。

「携帯電話は禁止して、劣等人種にだけ持たせればいい。事故にあって次々死んでいく」と持論を展開したり、「あなたはヒトラーそっくりに整形手術(Operation)したのか?」と問う相手に、「もちろん(第2次大戦における)作戦(Operation)はあった!」と答えるとか。

ある種、発達障害/自閉スペクトラム症的な描写をされています。現代の常識を知らないから当然かもしれませんが、場の空気を読まずに怖いものなしです。


 しかし、この小説のクライマックスは下巻29章「真実」における秘書クレマイヤー嬢との対話でしょう。

 クレマイヤー嬢は、コメディアンとして人気者になったヒトラーの秘書を務めていることを祖母に話し、祖母に憤慨される。祖母の血筋はユダヤ系であり、祖母の家族はナチスのユダヤ人虐殺で全員殺されたことを知らされます。

 クレマイヤー嬢に責められ、もう秘書を辞めると言われてヒトラーは混乱します。

クレマイヤー嬢が必要なのだ。そして、私は彼女に好感さえ抱いている。
その血管にユダヤの血が流れているのが事実としても、了解の上でつきあっていけばいいだけのことではないか(下巻144ページ)

 嘘がつけず民族の理想のために邁進したヒトラーでしたが、その彼が初めて、自身のおこないの論理的矛盾に気づかされる場面。

 行いが間違っていたにせよ、彼が、彼の信じる民族救済のために身を粉にして働いていたのは事実です。

本書では、ヒトラーが子供好きだったという描写が散見されます。下巻87ページでは、公園で遊ぶ子供たちを眺めながら美術のスケッチをしようとします。下巻196ページでは親のない子供が施設で育つのではなく誰かに引き取られるべきだと、養子縁組を奨励していたことを話します。

 そして彼がクレマイヤー嬢に弁解するように

「1933年には国民はだれひとり、巨大なプロパガンダ的な行為で説得させられてはいない。そして総統は、今日的な意味で<民主的>と呼ぶほかない方法で、選ばれたのだ。
自らのヴィジョンを非の打ち所がないほど明確に打ち出したからこそ、彼を、人は総統に選んだ。」

のも事実であり、第2次大戦から80年以上たった現在、世界のあちこちで今また静かに起こりつつある事態かもしれません。

 私は、この小説のキモは、上述のクレマイヤー嬢とのやり取りのように「自分が正しいと信じて行ったことによって、大切な誰かを傷つけていた体験からくる後悔」だと思います。

 そう翻訳すれば、歴史的な殺人者であるヒトラーの問題ではなく、普遍的に、私たち一人一人の問題へと繋がります。

 この本がドイツでなぜ大ヒットしたか。単にヒトラーを笑い飛ばすだけの本なら売れなかったと思います。誰だって自分の祖父母、先祖、国家の指導者が絶対的な大悪人でしかなかったなんて思いたくありません。

 ヒトラーがなぜ支持されたのか、彼が行った過ち、彼の持っていた美点、すべてを同じまな板の上にあげて料理したゆえにドイツ人の共感を得たのだと思います。


 ところで、過去の後悔は、村上春樹の小説の根底を流れるテーマの一つでもあります。なぜ、ここで村上かというと、『帰ってきたヒトラー』を読んでいて、村上の小説に出てくるキーワードが散見されることに気づいたからです。逆だ。村上春樹がナチスや第2次世界大戦に関するほのめかしを小説に忍ばせているのです。

 村上春樹の小説には、「第2次世界大戦から続く呪い」がキーワードとして描かれ続けています。

『ノルウェイの森」で主人公の友人のあだ名はナチスの軍事組織「突撃隊」です。突撃隊が居なくなった後、第2のヒロインであるミドリが強制収容所を思わせる短髪で登場します。

短編のタイトルになった「レーダーホーゼン」という短パンをヒトラーは好んでいたようですが、その短編ではレーダーホーゼンが離婚のきっかけになります。

村上春樹の小説では、ナチスや戦争に関するキーワードが、何かが損なわれる予兆として使われているように感じます。そういった観点で初期の村上作品を読み返してみたいです。



  

  カート・ヴォネガット「国のない男」 を読みました。カートの遺作にして言いたいことの要約。創作について、ただ、「本当のことを書け。本当の絶望を覆すには笑うしかない」、ということを言っている気がします。

カートは、すべてのアメリカ音楽のルーツはブルースだといい、それを歌うことは絶望への対処法だという。ついでながら『白鯨』や『ハックルベリーフィンの冒険』を読めと書いている。最後に書こうとしていた小説の構想も述べている。滅びに瀕している地球で全てを笑い飛ばそうとするコメディアンの話だ。ついでに「竹取物語」の話もしている。「月に人間がいるかどうかしらないが、いるとしたら地球を精神病院代わりに使っているかもしれないな」。かぐや姫は月で罪を犯して地球で生まれ直した。

最後の章、139ページからの話が好きだから要約します。

いやなおじさんがいた。彼は戦争から帰ってきたからお前も1人前だといった。彼を殺したいと思った。いいおじさんもいた。本好きで頭も良かった。おじさんは「世の中には自分が幸せだということに気づかないやつが多すぎる」といった。ある夏、リンゴの木の下で一緒にレモネードを飲んでいたら、おじさんはいった。「これが幸せでなきゃ、いったい何が幸せだっていうんだ」

処女作である「プレイヤー・ピアノ」で、主人公が、ナチスの突撃隊になぞらえた幽霊シャツ党に加わる最後の下りは、まさにドレスデン大空襲のメタファーだし、中盤で主人公が都市での地位を捨てて農耕生活をしようとするのは諸星大二郎「生物都市」を思い出します。後半、主人公が心理的父親殺しを指摘されるのは「カラマーゾフの兄弟」のオマージュかもしれない。機械に管理されるディストピアを、白人に追われたインディアンに例えるのは、正しく歴史的ディストピア小説。

「この文明が巨大で不完全な堤防であるような幻想を持った。そこでは無数のボンド博士が地平線の彼方まで一列に並び、その一人一人が決然と自分の指で堤防を塞いでいるのだ」(P266)

 


  村上春樹「街とその不確かな壁」を読みました。

これは私の視点ですが、村上はデビュー時から一貫して、「喪失感と世界への違和感を抱えて、それでも生き続けること」を描き続けてきたように思います。本人がどこまで意識していたかはわかりませんが、フロイト、ユングの心理学、自閉スペクトラム症、戦争やカルト、暴力による心的外傷体験が重要なキーワードでした。

1979年のデビュー作の時点で、自閉スペクトラム症を思わせる主人公、複雑性PTSDに伴う解離性幻聴を訴えるヒロインが登場します。ジュディス・ハーマンが複雑性PTSDの概念を提唱したのは1992年です。今日のような自閉スペクトラム症の概念が広まったのでさえ80年代以降です。つまり村上はフロイトやユング、PTSDを聞きかじったことはあっても、その後の精神医学で重要なテーマとなる内容を知らずに表現していたのです。おそらくは彼の内的必然性にしたがって。

新作は、幻の中編であり、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の原型を出発点に、「ノルウェイの森」「国境の南、太陽の西」 そして「海辺のカフカ」のテーマが出てきます。

壁に囲まれた街は、無意識の世界の象徴で、様々な感情、喜怒哀楽を捨てなければ入れません。その中では時間は流れず、当然音楽も鳴りません。村上作品には無意識、影、自己といったユングのキーワードを思わせる内容が少し形を変えて出てきます。

壁の街は恐怖心によって人々を拘束し、街から出ないようにします。街から弾き出された感情は疾病のもととされ一角獣と共に焼かれます。その煙はナチスの優性思想に基づく大量虐殺を連想させます。ナチスや第二次大戦を連想させるモチーフも、精神分析に勝る劣らず、村上作品の至る所に出てきます。

そして今回は明確に自閉スペクトラム症を思わせる少年との関わりがあり、彼が他者との共感性を獲得する必要があることも示されています。

自閉と心的外傷の問題は絡まり合い複雑です。世界への違和感を生まれつき抱えて、さまざまな外傷体験をへて、失われた大切な何か(それは恋人だったり、本来実現すべき自己だったり)を探し求める物語。

村上が翻訳したオブライエン「本当の戦争の話をしよう」はハーマンの心的外傷と回復にも多数引用されています。その中で、もっとも最初の心的外傷として、幼い頃に亡くなったガールフレンドをフィクションの世界で復活させることについて書かれており、それが本当の戦争の話であり、個人的な話であり普遍的だと語っています。

名探偵フィリップマーロウは失われた友情を、偉大なるギャツビーは戦争に阻まれ失われた愛を探していました。カート・ヴォネガットやカズオ・イシグロもしばしば戦争による外傷体験による解離について書いています。

 結論だけ言えば簡単に聞こえるかもしれませんが、その過程に彼らの生き様があり、価値観があります。